2012年3月28日水曜日

ガガなんてたいした事無い

 お父さんは実業家で、幼い頃はパリス・ヒルトンも在籍していたお嬢様学校で学ぶ。 
4歳で楽譜なしでピアノが演奏できるようになり、13歳で初のピアノ・バラードを作曲、大物アーチストを手がけたボイス・トレーナーに師事。。
14歳からNYのクラブでパフォーマンスを開始し、17歳で世界で20人しか早期入学が許されないというNYティッシュ・スクール・オブ・アートに入学。
そこで音楽を本格的に学び、エッセイや論文を書くことによって作詞作曲技術を改善した。

19歳でデフ・ジャムと契約を結ぶ傍ら、家族の助けなしに独立を図るため、クラブダンサーとして生計を立てる。
そのことが両親にショックを与え自らも苦悩したが、母親のまっすぐな助言と父親に認められるため、夢を諦めずに制作活動を行い、
ファーギー、ブリトニー・スピアーズ、ニュー・キッズ・オン・ザ・ブロック、エイコンといった、有名アーティストに楽曲を提供。
このときエイコンが、ガガには制作者としてだけではなく歌手としての才能もあると認め、自身のレーベル「コンライブ」とアーティスト契約を結ぶ。
ガガについて、「類稀な存在」「ダイアモンドの原石」、「これで老後の心配はなくなったよw」、と語った。

 彼女自身が全ての作詞と作曲を手がけ、ピアノやシンセの部分も自ら演奏したデビューアルバムを発売。
 そのリードシングル「ジャスト・ダンス」は、アメリカやイギリスなど世界5ヶ国のシングルチャートで1位を獲得した。
同曲はグラミー賞はノミネートのみに終わるも、続いてリリースされた「ポーカーフェイス」がMTVのビデオ・ミュージック・アワードで
最優秀新人アーティスト賞を受賞、「パパラッチ」で最優秀特殊効果賞、最優秀アートディレクション賞を受賞した。

 2011年3月11日に発生した東日本大震災に対し、その翌日には「WE PRAY FOR JAPAN 日本の為に祈りを」、と自らデザインしたブレスレットを販売。
 「収益は全部日本に寄付するわ。モンスターたちよろしく!」、と自身のツイッターでコメントしたので、
このブレスレットは2週間で1億2000万円以上も売り上げ全額寄付、チャリティー以外で個人でも1億2000万円以上も寄付をした。 

3月26日には「アイシテイマス」と日本にビデオメッセージを送り、日本記者からのインタヴューでも、
「日本のファンとは強い絆を感じるの。だからニュースを観るのが辛かった。
友達が辛いときはまず一緒にいてあげるでしょ?」と、再び日本で歌うことを約束。
6月21日に日本で大人気と聞いた初音ミクの緑色の髪で来日、その約束をきっちり果たした。
 翌日の記者会見では、「日本の為に祈りを」と書かれたティーカップを会見上で口に運びつつ、
このイベントで使ったティーカップもオークションに出品、赤十字を通じて被災地に寄付した。

 6月25日には、被災地支援イベント「MTV VIDEO MUSIC AID JAPAN(VMAJ)」に登場し、「Born This Way」などを披露。
曲の合間に「I Love Japan!」、と何度も渾身のエールを送る。
このときの日本滞在中には、まぶたの上に巨大な目を描いたり、日本で名が知られる以前から何度も出演していた「スッキリ!!」にも出演。
「徹子の部屋」出演時には、たまねぎのような衣装を身に纏い、徹子の得意としていた「頭の中から飴ちゃんを出す攻撃」をかけるも、
徹子オリジナルのキティちゃんをプレゼントされ大喜びしてしまい、黒柳徹子とのモンスター対決はドローとなった。

 またSMAP×SMAPに出演の際には、歌詞を「JAPAN!!」や「TOKYO!!」の連呼、ウイスキーを「SAKE」などに替え歌したLIVEの後、
「次はお料理ね♪」とビストロスマップにも出演。このときSMAP全員の顔と名前を事前に覚え、
一人ずつ名前を呼びながら話しかけ、「オイシイ」を連発、見事な箸使いを見せる。
 このときのガガは、被災地支援と世界への日本安全アピールのため、次の目的地である台湾へと向かう7月2日まで滞在した。

今でも作詞・作曲はもちろん、ピアノやシンセの弾き語りやセルフ・プロデュースをこなし、「LOVE TOKYO」とタトゥーを入れ、
ヨーコと名付けた柴犬を飼い、キティちゃんが大好きで、品川駅構内の「しながわそば」のかき揚げそばがお気に入り。

そんなどこにでもいる女の子、それがガガ。


水場に霊が集まりやすい・・・と言うことは・・・?


水場=霊が集まる
ゴキブリ=水場に集まる
霊=ゴキブリ